A Cup Of Tea


(At hiromiyoshii, Tokyo, June 23rd to July 31st, 2010)

ウェブ、特にビデオチャットという極めて曖昧な空間で形作られる関係性のありかたに興味がありました。「そこはプライベートだ」と信じるほかない空間。にもかかわらず、「そこにいるのは見えている」と、常に覗き見されている気がしてしまう空間。そこでは、外部を遮断するはずのカーテンが幕となり、勝手に引き上げられ、又は強引に引きずりおろされる可能性を秘めています。

それは、1924年に発表されたメルヴィルの『ビリー・バッド』に関してイヴ・セジウィックが論じた、戦艦の甲板上で艦長が(その権威をもって)作り上げる疑似プライベート空間のあり方にとても近いようにも思えます。

会見(オーディエンス)にはそれ自体観客(オーディエンス)、またはより不安をかきたてる潜在的観客のようなものがいるのである。(『クローゼットの認識論』 p.158)

不確かで信用できない空間で「潜在的観客」がかきたてる不安をおしのけ、または受け入れ、一人との結びつきを作り上げ、そしてその関係を確かにすることは可能なのでしょうか。そこからスタートしたのが、『You were there in front of me』という、ビデオチャット越しのポートレイト・プロジェクトでした。世界中の知らない人にコンタクトを取り、時間を決め、ビデオチャットを始める。そして、スクリーンの向こう側の「彼」を、こちら側から手持ちのカメラを使って撮影する。どのような関係性が生まれ、発展するのか、興味がありました。しかし、僕がこの作品を通して発見した事は、ビデオチャットという対面方式では、お互いの視線が出会うことが絶対にあり得ないという、ごくシンプルな事実でした。相手は僕を見ているように見えるだけなのです。

マシューはそのプロジェクトに参加したモデルの一人で、ふとしたきっかけから、長期的に彼を撮影することになりました。しかし、バーチャルの平面世界をどれだけ写真にしても、それはあくまでもバーチャルであり続けます。その写真を印刷しても、 ウェブカメラ、スクリーン、カメラ、フォトショップ、プリンターという何重もの記録を経た、一枚のより薄っぺらな嘘が出来上がるだけ。 それに加え、ウェブ上に広がる得体の知れない情報や検閲・漏洩の可能性、そしてこちら側にあるコンピューターそのものや、日常関わる人々、それらの大きな「潜在的観客」が邪魔をして、「彼」が見えないのです。手の形や瞳の色すらはっきりしない。距離感もわからない。けれども時折、他愛のないぼやけた部分–オレンジの皮、フルート、マグカップ、壁紙–が、彼という存在を訴えてきます。

A Cup Of Tea展の作品は、「潜在的観客」に対する僕なりの様々な試みです。彼らから隠れ、遊び、そして受け入れようとする試み。ほとんどの試みは失敗かもしれません。しかし、彼らの眼前において、向こう側にいる「彼」とのつながりを見つけたと思える瞬間も確かにありました。クモの糸程の細いつながりですが、それは「潜在的観客」の存在を打ち消すほどの確かさも持っていたのです。

Installation Views:
________________________________