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Queer Zinesを翻訳する

2014年08月13日(水)

ここに掲載されたテキストは、AA・ブロンソン&フィル・アーロンズ編集、Printed Matterが発行した『Queer Zines vol.1』(2008)『Queer Zines Vol.2』(2014)に収録されたテキスト(前書き、エッセイ、ジン紹介文など)を和訳したものです。Queer Zines Vol.1 Vol.2ともに、copyright-freeとなっていますが、編集者であるAA・ブロンソン氏の許可は頂いています。作家名、書籍名は英語表記のままにしてあります。気になったら、ぜひ検索してみてください。

クィアジン、そしてクィアな表現については、「日本とクィアな表現」をご一読下さい。和訳テキストは随時追加していく予定です。

和訳テキスト:
AA・ブロンソン「前書き」(Vol.1)
クリス・ワイルド「クィアジンを救え」(Vol.1)
LTTR(Vol.1)
K8 Hardy「Fashionfashion」(Vol.1)
Straight to Hell(Vol.1)

American Boyfriend: Bodies of Water

2014年06月04日(水)

会場: 京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA Gallery A、堀川団地
会期: 2014年6月14日(土)-7月27日(日)

新作映像「River」と2014年12月に発表した「The Ocean View Resort」を中心とし、立体作品や写真、テキスト作品などの旧作・新作を織り交ぜた、水の領域をテーマにした展示構成になっています。梅雨の京都、堀川沿いを歩いて行き来できる2会場で開催しました。

展示に連動する形で、テキスト作品「Bodies of Water」を美術手帖7月号にて、16ページにわたり発表。アメリカでの記憶と東京での暮らしを基に執筆した物語と、フェリックス・ゴンザレス=トレスがロニ・ホーンの作品について書いたエッセイ「1990: L.A., The Gold Field」の日本語訳から構成され、こちらも展示の1要素となっています。

企画: 京都市立芸術大学ギャラリー @KCUA
主催: 京都市立芸術大学

http://gallery.kcua.ac.jp/#ja

American Boyfriendプロジェクト http://americanboyfriend.com/
企画:兼平彦太郎、プレス:増崎真帆、デザイン:木村稔将

Venue: Kyoto City University of Arts, Art Gallery, Horikawa Danchi
Dates: June 14th(Sat)-July 27th(Sun)

“Bodies of Water” exhibition took place during the rainy season in Kyoto, in two venues alongside Horikawa River: at @KCUA, Art Gallery of Kyoto City University of Arts and at Horikawa Danchi, a renovated gallery space within one of the oldest Housing Complex in Japan. The exhibition included new video piece “River,” “The Ocean View Resort,” a video piece previously exhibited in December 2013 in Tokyo, alongside other sculptural, photographic and embroidery pieces.

To accompany the exhibition, Japanese art magazine Bijutsu Techo (BT) published my 16-page text piece “Bodies of Water” on their July issue. The piece functioned as a guide for the Kyoto exhibition; and it included Japanese translation of “1990: L.A., The Gold Field” by Felix Gonzalez-Torres, which he wrote in response to seeing Roni Horn’s “Gold Field” At LA MoCA in 1990.

Organized by Kyoto City University of Arts, Art Gallery
http://gallery.kcua.ac.jp/#ja

American Boyfriend Project http://americanboyfriend.com/
Curation: Hikotaro Kanehira, PR: Maho Masuzaki, Design: Toshimasa Kimura

American Boyfriendトーク「戦争を想像する」

2014年03月11日(火)

会場:VACANT
住所:150-0001 東京都渋谷区神宮前3-20-13
日時:2014年3月23日(日) 14:00-

美術や文学をはじめとしたさまざまな媒体で、第二次大戦や戦後の混乱期を知らない若い作家が、独自の視点で第一次・第二次大戦を取り上げ、描いてきました。70年近くにわたり(少なくとも直接的には)戦争を経験してこなかった、また、国外の紛争から物理的距離において切り離されたように思えてしまう日本という場所で、どのように戦争を語るのか。本トークでは、現在活動する若手の表現者たちの作品における戦争の表象、また、時間的・地理的に遠い場所で起きた(起きている)戦争が現代日本に生きる私たちに与える影響についてを、作家・漫画家の小林エリカさん、「新潮」編集長の矢野優さんをゲストに、見てゆきます。

出演:
小林エリカ(作家・漫画家)
矢野優(「新潮」編集長)
ミヤギフトシ(現代美術家)

司会:
江口研一

ご予約はVACANTまで

New Message (Exhibition)

2013年11月28日(木)

Book Launch and Exhibition
at Post
2-10-3 Ebisu Minami, Sibuya, Tokyo
December 7th(Sat)-19th(Thur), 2013 *Closed on Mondays
Hours: 12:00–20:00
Reception: 2013.12.7 (Sat) 18:00-20:00

これまでの作品と付随するテキストをまとめた初となる作品集『new message』の刊行を記念した、写真と立体作品の展示を開催します。

2005年から現在までに制作した作品が、一冊の本になりました。ニューヨーク、東京、沖縄など、色々な場所で作られてきた作品の流れを見ることが出来る、これまでの包括となる作品集です。展示は、写真作品と過去の立体作品から構成されます。[/lang_jp]

The exhibition of photographs and objects will be held, celebrating the publication of the book new message.

Futoshi Miyagi new message
Designed by Yuri Suyama
Paperback, 72 pages
In Japanese and English
2,625 yen (Regular edition)
Edition of 400 with Special edition of 30
Published by torch press

Blue Valentine

2013年02月08日(金)

Group Show
“Blue Valentine” -presented by XYZ collective
at XYZ collective, Tokyo http://xyzcollective.org/access
February 10th(Sun) to March 3rd(Sun) *Closed on Mon, Tue, Wed
Hours: 14:00 -19:00
Reception: 2月10日(日)16:00-18:00

Artists:
大久保あり、小林エリカ、COBRA、戸田祥子、mamoru、松原壮志朗、南川史門、ミヤギフトシ

Curator: 松原壮志朗

「エイズ危機時代のアメリカにおけるクィアの表現とその可能性」

2012年07月26日(木)

American Boyfriend”関連イベント
「エイズ危機時代のアメリカにおけるクィアの表現とその可能性」

笠原美智子、千葉雅也、ミヤギフトシ

2012.8.4 (sat)
at VACANT

80~90年代にかけエイズ危機に覆われたアメリカ美術界で、セクシュアルマイノリティのアーティストたちは誰に向けてどのような表現を行っていたのでしょうか。デイヴィッド・ヴォイナロヴィッチやフェリックス・ゴンザレス=トレスをはじめとしたセクシュアルマイノリティの作家に顕著な「抗い」や「哀しみ」という時代特有の表現を再考しながら、彼・彼女らの手法は、セクシュアルマイノリティによる表現がいまだ表面化しづらい日本においてどこまで可能か、ともに見てゆきます。

スピーカー:
笠原美智子(東京都写真美術館チーフ・キュレーター)
千葉雅也(研究者、批評家)
ミヤギフトシ(現代美術家)

聞き手:
江口研一(編集者、ライター)

詳細・ご予約はこちら

American Boyfriend: An Exhibition

2012年07月10日(火)

沖縄で沖縄人男性とアメリカ人男性が恋に落ちること。それは可能なのだろうか。それぞれの言葉があり、翻訳され、取りこぼされ、誤訳される言葉がある。隔てられたそれぞれの場所で、ふたりが見る風景はどう違い、ふたりはどれだけ近づくことができるのか。

ある土地における男性性のあらわれと、関係性。そこにある隔たりは、どのようなものなのだろう。新城郁夫さん(文学批評、琉球大学教授)との何度かのメールのやり取りのなか、隔たりは「そう意識されなくとも人が共に生きている(生きていた)ことの、ほとんど絶対的な条件」という彼の言葉に、僕はふと気づく。必ずしも全てが絶望的な断絶ではなく、薄い膜のような、寄添いの可能性に満ちた隔たりも存在するということ。レースのカーテン、ベッドシーツ、肌。アロハシャツ。そして、壁や塀、森と海。あるいは、言葉、人種、年齢、セクシュアリティ、コミュニティ。沖縄は、そういった「隔たり」が強く意識される場所で、それは、そこが歴史、政治、地理の上で幾つもの線を引かれた島だからかもしれないし、だからこそ、隣にいるかもしれない誰かを、とても大切に求めるのかもしれない。

沖縄にいた頃、高校生の僕はクローゼットの中でずっとアメリカに憧れ、アメリカ映画を観て長い時間を過ごした。そのうちに沖縄を離れ、アメリカに長く住んだあと東京に移り、あこがれはゆるやかで確かな諦めとなる。覚えた英語はどんどん忘れて、それに対して為す術もない。沖縄に帰る度に街中を見回すけど、目にするアメリカ人は相変わらず兵士ばかり。でも僕はアメリカンボーイフレンドという関係の可能性を探す。ふとした瞬間に現れる隔たり、社会の間隙よりもさらにわずかな切れ目の向こうに見え隠れするその可能性が、僕を沖縄とを結びつけている。沖縄で沖縄人男性とアメリカ人男性が恋に落ちること。何度沖縄に帰っても、僕はその関係を、そこに存在するであろう、豊かな隔たりを見つける事はできなかった。でも、その存在のありかを求め続ける事で、僕はふるさとに自らの場所を見つけ出そうとしている。

ミヤギフトシ、2012

A Cup Of Tea

2010年08月21日(土)

ウェブ、特にビデオチャットという極めて曖昧な空間で形作られる関係性のありかたに興味がありました。「そこはプライベートだ」と信じるほかない空間。にもかかわらず、「そこにいるのは見えている」と、常に覗き見されている気がしてしまう空間。そこでは、外部を遮断するはずのカーテンが幕となり、勝手に引き上げられ、又は強引に引きずりおろされる可能性を秘めています。

それは、1924年に発表されたメルヴィルの『ビリー・バッド』に関してイヴ・セジウィックが論じた、戦艦の甲板上で艦長が(その権威をもって)作り上げる疑似プライベート空間のあり方にとても近いようにも思えます。

会見(オーディエンス)にはそれ自体観客(オーディエンス)、またはより不安をかきたてる潜在的観客のようなものがいるのである。(『クローゼットの認識論』 p.158)

不確かで信用できない空間で「潜在的観客」がかきたてる不安をおしのけ、または受け入れ、一人との結びつきを作り上げ、そしてその関係を確かにすることは可能なのでしょうか。そこからスタートしたのが、『You were there in front of me』という、ビデオチャット越しのポートレイト・プロジェクトでした。世界中の知らない人にコンタクトを取り、時間を決め、ビデオチャットを始める。そして、スクリーンの向こう側の「彼」を、こちら側から手持ちのカメラを使って撮影する。どのような関係性が生まれ、発展するのか、興味がありました。しかし、僕がこの作品を通して発見した事は、ビデオチャットという対面方式では、お互いの視線が出会うことが絶対にあり得ないという、ごくシンプルな事実でした。相手は僕を見ているように見えるだけなのです。

マシューはそのプロジェクトに参加したモデルの一人で、ふとしたきっかけから、長期的に彼を撮影することになりました。しかし、バーチャルの平面世界をどれだけ写真にしても、それはあくまでもバーチャルであり続けます。その写真を印刷しても、 ウェブカメラ、スクリーン、カメラ、フォトショップ、プリンターという何重もの記録を経た、一枚のより薄っぺらな嘘が出来上がるだけ。 それに加え、ウェブ上に広がる得体の知れない情報や検閲・漏洩の可能性、そしてこちら側にあるコンピューターそのものや、日常関わる人々、それらの大きな「潜在的観客」が邪魔をして、「彼」が見えないのです。手の形や瞳の色すらはっきりしない。距離感もわからない。けれども時折、他愛のないぼやけた部分–オレンジの皮、フルート、マグカップ、壁紙–が、彼という存在を訴えてきます。

A Cup Of Tea展の作品は、「潜在的観客」に対する僕なりの様々な試みです。彼らから隠れ、遊び、そして受け入れようとする試み。ほとんどの試みは失敗かもしれません。しかし、彼らの眼前において、向こう側にいる「彼」とのつながりを見つけたと思える瞬間も確かにありました。クモの糸程の細いつながりですが、それは「潜在的観客」の存在を打ち消すほどの確かさも持っていたのです。

A relationship formed within the sphere of the internet, especially that of video-chat, has been intriguing me for quite a while. We are assured that it is private, yet we always feel observed. We feel that someone is seeing us. The bedroom curtains can become theater curtains, raised without notice, or forcefully pulled down to expose what is on the other side.

There seems to be a striking similarity between the nature of the video-chat and the pseudo-privacy that a captain of a warship, with his authority, creates on the deck in Melville’s Billy Budd, Sailor. Eve Kosofsky Sedgwick in her book Epistemology of the Closet, argues that:

“The audience…has itself an audience, or the more unsettling incipience of one”

In such an unreliable and skeptical realm, is it possible to negate the unsettling nature of that incipient audience, and to generate a firm connection with an other?

A few years ago, I started the project “You were there in front of me”, which is a portrait project done using video chat programs. I contacted people from all over the world, scheduled time for the shoot. At the arranged time we started the chat, then with my handheld SLR, I photographed him displayed on the screen of my laptop. I was curious to see what sort of relationship woud develop there. However, what I realized through the process was such a simple fact that we (I and the other) can never meet each other’s gaze. The other only seems to see me.

Matthew was one of the models who sat for the project. More by accident than by planning, I kept photographing him in a long term we became friends. Yet, regardless of how many photographs I shot and printed, the virtual images remained virtual. Web camera, screen, SLR, Photoshop, Printer, those layers of processes only adds to its original un-realness. Plus there were those uncanny presence of the incipient audience: information on the web, possible censorship and leakage of the personal, the computer itself in front of me, and people I encounter in everyday life. I could not see him clearly. I was not sure of the shape of his hands, color of his eyes. Yet once in a while, some seemingly irrelevant parts – an orange peel, flute, mug cup, wall paper- speak to me and reveal things about him.

The works in “A Cup Of Tea” are my various attempts against those incipient audience. The attempts to hide from them, to play with them, and to accept them. Many of them seem to be failures. But there are times that I was certain to establish a firm connection. It was a thin spider’s thread, yet the thread was as strong as to clear the presence of the incipient audience.

Author

2009年08月22日(土)

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